会社売却(株式譲渡)でオーナー社長が受け取る対価の一部を「役員退職金」として支給すると、税率20.315%の株式譲渡益より低い税率の退職所得に振り替えられ、手取りを増やせる場合があります。同時に、会社が契約している法人保険(経営者保険)を売却前に整理しておかないと、二重課税や強制解約損で手取りが目減りする恐れがあります。
この記事では、会社を売りたいオーナー社長に向けて、役員退職金スキームの仕組みと計算、法人保険の3つの整理方法、2026年現行の税務ルール(70%ルール・特定役員退職手当等)、売却前にやるべき順序まで、手取りを最大化しながら失敗を避けるための判断材料を整理します。
- この記事でわかること:退職金スキームで手取りが増える理由と計算方法/法人保険の整理3パターンと注意点/古い節税スキームが使えなくなった理由/売却前チェックリスト
- こんな方向け:会社(株式)を売却予定で、手取り額を最大化したいオーナー社長。会社契約の生命保険(経営者保険)に加入している方
⚠️ 本記事は2026年7月6日時点の税制・実務に基づく一般的な解説です。実際の税額・スキームの可否は個別事情で大きく変わります。必ず税理士・M&Aアドバイザーに相談のうえ判断してください。
結論:売却前に「退職金の設計」と「法人保険の整理」をセットで進める
会社売却で手取りを最大化するうえで、まず押さえるべき結論は次の3点です。
- 対価の一部を役員退職金で受け取ると税負担を下げられる可能性がある — 株式譲渡益は一律20.315%だが、退職所得は退職所得控除と「1/2課税」により実効税率が下がりやすい。
- 法人保険は売却前に「解約・名義変更・会社分割」のいずれかで整理する — 買い手にとって保険契約は不要資産のことが多く、放置すると二重課税や強制解約損の原因になる。
- 設計を誤ると逆効果になる — 過大退職金は損金否認、勤続5年以下の役員は1/2課税なし、2021年改正後の保険名義変更は「70%ルール」で制限、といった落とし穴がある。
つまり、「退職金でいくら受け取るか」と「保険をどう処理するか」は別々ではなく一体で設計するのが正解です。特に、会社契約の生命保険を退職役員に名義変更して退職金の現物支給に充てる方法は、両者をつなぐ実務上の要になります。
次の読み物:会社売却全体の流れはM&A(会社売却)の流れ、費用・手取りの全体像はM&Aの費用・手数料ガイドを参照してください。
なぜ役員退職金にすると手取りが増えるのか(税率の違い)
理由はシンプルで、株式譲渡益より退職所得のほうが実効的な税負担が軽くなりやすいからです。売却対価の全額を株式の代金として受け取ると一律20.315%が課税されますが、その一部を退職金に振り替えると、退職所得の優遇(控除+1/2課税)が効きます。
株式譲渡益と退職所得の税率比較
区分 | 課税方式 | 税率の目安 |
|---|---|---|
株式譲渡所得 | 申告分離課税 | 一律 20.315%(所得税15%+復興特別所得税0.315%+住民税5%) |
退職所得 | 分離課税(退職所得控除+1/2課税) | 累進だが実効税率は概ね0〜27.5%程度(金額・勤続年数で変動) |
出典:ストライク、タナベコンサルティング(確認日2026-07-06)。※退職所得の「実効税率0〜27.5%程度」は概算であり、実際の税率は退職金額・勤続年数で変わります。
退職金が退職所得控除の範囲内に収まる部分は課税されず、控除を超えた部分も1/2だけが課税対象になります。この構造により、退職金部分は同じ金額を株式譲渡益で受け取るより手取りが増えやすいのです。
退職所得の計算方法
退職所得は次の式で計算します(国税庁 No.1420、確認日2026-07-06)。
退職所得=(収入金額 − 退職所得控除額)× 1/2
退職所得控除額は勤続年数で決まります。
- 勤続20年以下:40万円 × 勤続年数(最低80万円)
- 勤続20年超:800万円 + 70万円 ×(勤続年数 − 20年)
- 例:勤続30年 →「800万円+70万円×10年=1,500万円」が控除額
たとえば勤続30年のオーナーが退職金6,000万円を受け取る場合、課税対象は「(6,000万円 − 1,500万円)× 1/2 = 2,250万円」に絞られます。これを株式譲渡益として一律20.315%で受け取る場合と比べると、税負担が抑えられるケースが多くなります。
退職所得は原則として他の所得と分けて課税され、「退職所得の受給に関する申告書」を会社へ提出すれば源泉徴収で完結します(未提出の場合は20.42%が源泉徴収されます)。
役員退職金の「適正額」はどう決まるか(功績倍率法)
退職金は多ければ多いほど得、ではありません。「不相当に高額」と判定された部分は法人の損金に算入できず、法人税が追徴されるためです。実務では、適正額の目安として「功績倍率法」がよく使われます。
役員退職金 = 最終報酬月額 × 役員在任年数 × 功績倍率
功績倍率は、過去の裁判例や実務慣行で用いられてきた次の水準が目安とされています(法令で定められた固定基準ではありません)。
役職 | 功績倍率の目安 |
|---|---|
社長 | 3.0 |
専務 | 2.4 |
常務 | 2.2 |
平取締役 | 1.8 |
監査役 | 1.6 |
例:最終報酬月額100万円 × 在任20年 × 功績倍率3.0 = 6,000万円
出典:平山智広税理士事務所、M&Aキャピタルパートナーズ(確認日2026-07-06)。功績倍率は目安であり、断定的に「上限」とはいえません。
過大退職金と判定されると起きること
職務内容や業績が変わらないのに、退職金計算のためだけに報酬月額や倍率を引き上げると、税務調査で否認されるリスクが高まります。過大と判定されると、次のようにむしろ総手取りが減る可能性があります。
- 過大部分が損金不算入となり、法人税が追徴される
- 会社の純資産・株価評価に影響し、買い手が「過大」と判断して譲渡価格が下がる
- 従業員に不信感が生じ、離職につながる
退職金の設計は「取れるだけ取る」のではなく、適正額の範囲で株式譲渡対価とのバランスを最適化するのがポイントです。
会社売却時の法人保険の整理方法(3パターン)
会社が契約者になっている経営者保険は、買い手にとって不要資産であることが多いため、売却前に処理しておくのが基本です。整理の方法は主に次の3つで、それぞれ税務上の扱いと注意点が異なります。
整理方法 | 概要 | 主なメリット | 主な注意点 |
|---|---|---|---|
① 解約する | 売却前に解約し解約返戻金を会社に受け入れる | 手続きが単純・保険契約を確実に消せる | 解約益に法人税が発生しうる/解約返戻金が低いと損 |
② 契約者を個人へ名義変更(退職金の現物支給) | 会社契約を退職役員へ名義変更し、返戻金相当額を退職金として支給 | 現金流出を抑えつつ退職金を支給できる | 70%ルールで評価額が上がる場合あり/勤続年数要件に注意 |
③ 会社分割で切り出す | 保険積立金など不要資産を売却対象外へ分割 | 強制解約・買い戻しを回避できる | 組織再編税制が絡み高度・専門家必須 |
① 解約する
もっとも単純な方法です。売却前に保険を解約し、解約返戻金を会社が受け取ります。ただし、解約返戻金が資産計上額を上回ると「保険解約益」となり法人税が発生します。逆に解約返戻金が払込額を大きく下回るタイミングだと、解約損が生じる点にも注意が必要です。
② 契約者を個人へ名義変更(退職金の現物支給)
会社契約の生命保険を退職する役員個人へ名義変更し、解約返戻金相当額を役員退職金として現物支給する方法です。現金を動かさずに退職金を渡せるため、資金繰りへの影響を抑えられます。手続きの流れは次のとおりです。
- 株主総会・取締役会で退職金支給と保険の現物支給を決議する
- 保険会社へ契約者の名義変更を申請する
- 法人側は退職金を損金算入し、保険資産を取り崩す
- 役員側は退職所得として申告する
ただし、この方法は後述の「70%ルール」によって、かつてより節税効果が制限されています。名義変更後は、解約時は一時所得、死亡時はみなし相続財産として別途課税される点も押さえておきましょう。
出典:相続税のPrime、役員退職金準備のすべて(taishokukin.jp)(確認日2026-07-06)。
③ 会社分割で切り出す
保険積立金などの不要資産を会社分割によって売却対象会社の外へ切り出し、強制解約や個人による買い戻しを避ける方法です。うまく設計すれば後述の二重課税を回避できますが、組織再編税制が絡むため難易度が高く、税理士・M&Aアドバイザーとの綿密な設計が前提になります。本記事では概要にとどめます。
出典:STRコンサルティング、MAASS(確認日2026-07-06)。
見落とすと損する3つの落とし穴(2026年現行ルール)
ここが競合記事でも抜けがちで、かつ手取りを大きく左右するポイントです。古い節税スキームを前提にした情報が残っているため、2026年時点の現行ルールで判断することが重要です。
落とし穴1:法人保険名義変更の「70%ルール」
2021年7月の税制改正(所得税基本通達36-37)により、2019年7月8日以降に契約した定期保険・第三分野保険を名義変更する場合、解約返戻金が帳簿上の資産計上額の70%未満のときは、解約返戻金相当額ではなく「資産計上額」が評価額になります。
かつては「低解約返戻金型の保険を、返戻金が低い時期に安く個人へ移す」という節税スキームが使われましたが、この改正で大幅に制限されました。契約時期・保険種類によって扱いが変わるため、一律には判断できません。名義変更を検討する場合は、契約日と保険種類を確認したうえで税理士に相談してください。
出典:ほけんのAI、taishokukin.jp(確認日2026-07-06)。
落とし穴2:勤続5年以下の役員は「1/2課税」が使えない
役員としての勤続年数が5年以下の人に支給する退職金は「特定役員退職手当等」に該当し、退職所得を1/2にする優遇が適用されません(退職所得=収入金額 − 退職所得控除額)。
つまり、退職金スキームのために売却直前だけ役員に就任したようなケースでは、節税効果が大きく削がれます。長年オーナー社長を務めてきた方であれば問題になりにくいですが、名義上の役員就任期間が短い場合は要注意です。
出典:国税庁 No.2737、国税庁 No.2741(確認日2026-07-06)。
落とし穴3:保険の含み益を放置すると「二重課税」になる
含み益のある保険契約を整理せずに売却すると、二重の負担が起こり得ます。
- 解約返戻金相当額が会社の純資産に反映され、株式譲渡代金に上乗せされて譲渡所得税が増える
- 買収後に個人が契約を買い戻す際、保険契約の売却益が生じて法人税が増える
このように、放置すると「売り手の譲渡益課税」と「買い戻し時の法人課税」の両方が発生し得ます。だからこそ、売却前の段階で保険をどう処理するかを設計しておくことが、手取りを守るうえで欠かせません。
出典:STRコンサルティング、MAASS(確認日2026-07-06)。
売却前チェックリスト(DD前〜クロージング)
整理には順序があります。買い手のデューデリジェンス(DD)が始まる前に着手しておくと、交渉や価格に悪影響を与えにくくなります。おおまかなタイムラインは次のとおりです。
DD開始前(できるだけ早く)
- 会社契約の生命保険をすべて洗い出す(契約日・種類・解約返戻金・資産計上額)
- 2019年7月8日以降契約の定期・第三分野保険がないか確認(70%ルールの対象判定)
- 自分の役員在任年数を確認(勤続5年以下でないか)
- 役員退職慰労金規程が整備されているか確認
- 税理士・M&Aアドバイザーに退職金と保険の設計を相談
基本合意〜DDの段階
- 退職金の適正額を功績倍率法で試算し、株式譲渡対価とのバランスを決める
- 保険の整理方法(解約/名義変更/会社分割)を決定
- 株主総会・取締役会での退職金決議の準備
クロージングに向けて
- 退職金支給・保険の現物支給を正式決議
- 保険会社への名義変更・解約手続き
- 「退職所得の受給に関する申告書」の提出
売却全体の準備はM&A(会社売却)の流れ、DD対応はM&A DD 売り手の準備チェックリストもあわせて確認してください。
退職金スキームが向いている会社・向かない会社
退職金スキームと保険整理は、すべての会社に等しく有効なわけではありません。自社が当てはまるか確認しましょう。
こんな会社・オーナーに向いている
- 株式譲渡で会社を売却する(会社が存続するため退職金を支給しやすい)
- オーナー社長として長年(少なくとも5年超)在任している
- 会社契約の経営者保険(生命保険)に加入している
- 売却対価が大きく、株式譲渡益への課税負担を少しでも下げたい
- 税理士・M&Aアドバイザーと連携して丁寧に設計する余裕がある
あまり向かない・慎重に判断すべきケース
- 事業譲渡で売却する(法人格が移らず、退職金・保険の扱いが株式譲渡と異なる)
- 役員の在任期間が5年以下(1/2課税が使えず効果が薄い)
- 職務や業績の裏付けなく退職金だけを引き上げようとしている(過大退職金として否認されるリスク)
- 会社の利益・資金に余裕がなく、退職金支給が財務を圧迫する
- 保険が2019年7月8日以降契約の定期・第三分野で、名義変更しても70%ルールで効果が限定的
株式譲渡と事業譲渡どちらで進めるべきかは株式譲渡 vs 事業譲渡の比較で詳しく解説しています。
専門家への相談が必要な理由
退職金と保険の整理は、税務・組織再編・会社法の形式要件が複雑に絡むため、独力で最適化するのは困難です。特に次の点は個別判断が必須です。
- 退職金の適正額(功績倍率・報酬水準の妥当性)
- 保険の整理方法の選択と、70%ルール・二重課税の回避設計
- 株主総会決議・退職慰労金規程などの形式要件
- 退職金と株式譲渡対価の最適な配分比率
税額やスキームの可否は、契約日・保険種類・在任年数・会社の財務状況によって大きく変わります。具体的な判断は必ず税理士・弁護士・M&Aアドバイザーに相談してください。 仲介会社選びも含めて相談先を検討する場合は、M&A仲介会社の選び方やM&A無料相談の活用法を参考にしてください。
よくある質問(FAQ)
Q. 役員退職金は売却対価とは別にもらえるのですか?
A. 株式譲渡では、売却対価の総額の一部を「退職金」として、残りを「株式譲渡代金」として受け取る形になります。上乗せで無限にもらえるわけではなく、会社の資金・純資産の範囲で配分する設計です。退職金部分は退職所得として、株式代金部分は譲渡所得として課税されます。
Q. 退職金はいくらまでなら税務上問題ないですか?
A. 明確な上限額は法令で決まっていません。実務では功績倍率法(最終報酬月額×在任年数×功績倍率)による試算が目安として使われますが、「不相当に高額」と判定された部分は損金不算入になります。金額の妥当性は職務内容・業績・同業他社水準などで判断されるため、税理士に確認するのが安全です。
Q. 会社契約の生命保険は必ず解約しないといけませんか?
A. 必須ではありません。「解約」のほか、退職役員への「名義変更(現物支給)」や「会社分割での切り出し」という選択肢があります。ただし、買い手が不要資産として整理を求めることが多いため、放置せず売却前に方針を決めておくのが基本です。
Q. 2021年の「70%ルール」で名義変更の節税はもうできないのですか?
A. まったくできないわけではありませんが、2019年7月8日以降契約の定期・第三分野保険で解約返戻金が資産計上額の70%未満の場合、評価額が資産計上額に引き上げられ、以前のような大きな節税効果は得にくくなりました。契約日・保険種類によって扱いが変わるため、個別に確認が必要です。
Q. 勤続年数が短いと本当に不利ですか?
A. 役員としての勤続年数が5年以下だと「特定役員退職手当等」に該当し、退職所得の1/2課税が使えません。節税のために直前だけ役員に就任するような形は効果が薄く、否認リスクもあるため避けるべきです。
免責事項:本記事は2026年7月6日時点の公開情報・税制に基づく一般的な解説であり、特定の税務処理や取引を推奨するものではありません。税率・控除額・スキームの可否は法改正や個別事情により変動します。実際の判断にあたっては、必ず税理士・弁護士・M&Aアドバイザー等の専門家にご相談ください。
